長野県中野市四人殺害に思う

 長野県中野市で4人を猟銃等で殺害するという痛ましい事件が起きた。毎日のようにメディアで伝えられていたが,今は一面からは消えている。そこで,自分なりの感想を書きたいと思う。

私でも人を殺したいと思ったことはある

 教師である私でも,本当に人を殺したいと思ったことはある。私が言い返せないことをいいことに,仕事上のことで暴言を言う母親を殺したいと思った。どうして言えなかったのか?それは子供を傷つけることになるからだ。私たちは子供を相手にしている教師である。その子を傷つけることは言えない。もちろん若き日,「子供に手を出したことをなかったか?」と問われれば,昭和の時代は確かに手を出したし,感情で怒ってしまったこともある。しかし,子供の一生を左右するようなその子を貶めるようなことをしなかったと思う。もちろんそれは「お前自身の目で見た,お前自身の中の価値基準での判断でしかない」と言われればそれまでだが。

 こっちは我慢しているのに,好き勝手に偉そうなことを言ってくるヤツが許せなかった。“殺したかった。”今でもバットでおもいっきり,頭を叩けたらどんなに気持ちがいいかと思い出すこともある。

 でも,私はしなかった。私には銃がなかった。また,時が経てば逃れられ,そして,その痛みもいつかはやわらぐことも分かっていたのだ。もちろん人を殺すことはやってはいけないことであるが,それよりもそいつを殺害することでさらに自分が傷つくのが嫌だったから留まったの方が理由としては大きい。

逃げられなかったのでは?

 彼は,逃げられなかったのだと思う。日本の田舎はいまだに八つ墓村の世界なのだ。年寄りは近所のうわさがアイドルのゴシップと同じように,何よりも楽しみなのだ。“ぼっち”ではいらせなかったのだと思う。殺された人たちが彼に対して,何かを言ったかどうかは定かではないが,地域の目,しがらみは気になっていたことは確かだろう。この点はホリエモンも言っていたが,彼は一人で田舎の閉鎖的な社会から逃げるべきではなかったかと思う。でも逃げられなかったのでしょう。

”孤立は許さない!” 銃は仲間で規制できるようにできないか?

 次に,銃の問題である。精神的にも不安定な部分が感じ取れた彼に,銃を与えた保護者の責任は大きい。止めることはできなかったのか?また,銃の許可を出すときに,「父が市議であることに忖度はなかったのか?」気になる。また,彼は猟友会にも所属していないという。銃の保持者相互の関係で,良い意味での監視,管理はできないものだろうか?当然,日本の社会の中では害獣駆除などの目的で銃の許可がおりているはずです。銃を所有する目的での仲間関係を重視し,孤立した銃の保持者をつくることはできないものなのだろうか?

 ユーチューブなどで一番納得がいったのが,医師の和田秀樹の解説である。彼が心の病を持っていたという。家庭が無理でも,銃を持っている組織の仲間関係で医師に相談できるシステムができないか?と思う。

最後に

 職務で急行し,突然銃の餌食になった警察官のことを考えれば,家族のやるせなさは半端ないものだろう。もちろんお二人の女性も含めて,お悔やみを申し上げたいと思う。そして,二度とこのような事件が起こらないことが,何よりも亡くなった方々への供養になるのだと思う。